感謝の手紙
『ありがとう』

手紙コンテスト
第2回は

触れ合えない時間が
増えてしまった今だからこそ

日常口に出す事の無かった素直な想いを
綴っていただきました

感謝でいっぱいの温かいお手紙を本当にありがとうございました

コロナ禍で以前のように人がふれあいを持つことが出来なくなってしまった今

・帰省も出来ず大切な方と一緒に時間が過ごせない・・・

・平穏な日常のありがたさを失って初めてわかった

というお声を多く聞くようになって参りました

いつも感謝の気持ちを持っているけれど
言葉にして伝えることって
案外できていなかったりするんですよね

こんな状況だからこそ
感謝の気持ちをかたちにすることで
温かい心をお互いに感じ
困難な状況を乗り越えられる力に繋がるのではないか、という想いから、

今回コンテスト第二弾の『感謝の手紙「ありがとう」』コンテストを開催するに至りました。

第2回手紙コンテスト
受賞者


鈴木 晴彦 様

水野 桂 様
(順不同)
 みさわ 有美 様
 きらら 様
 帽子  様
 さきこ 様
大須賀 一夫 様
坊垣 宗之   
※当初入選数は3枠でしたが
素敵な手紙が多く

もう3枠増やしました
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受賞作品

金賞 鈴木 晴彦 様

「恩師」
新聞のお悔やみ欄に先生の名前を見つけました。

 享年86歳だから、私が高校3年生だった43年前、先生は43歳だったのですね。
 地理や日本史の担当だった先生は、173㌢の私より少し大柄で中肉中背、髪の毛はオールバックで「ギョロッ」と相手を射るような鋭い視線と少し赤ら顔なのが特徴で、生徒から「赤マムシ」と呼ばれていました。
 教科書とチョーク入れの木箱を小脇に抱えて教室に入ってきて、授業はひたすら教科書を読み黒板全体に要点を書き続けるスタイルでした。
 我々は黒板の文字を必死でノートに書き写し、教室内は先生のエコーの効いた声とチョークの音、私たちがノートに書き写す鉛筆の微かな音だけだったことを思い出します。

 そんな先生と授業以外で会話を交わすようになったのは高校3年の初夏のことでした。
 昼間働きながら夜学へ通いたいと考えていた私に、住み込みで働けて夜学にも通わせてくれる酒店を紹介して下さったのがきっかけでした。
 酒店は先生の知り合いで、私の意志を確認した先生は早速、酒店の社長に連絡を入れ面接の日時を決めてくれて、面接時は東京の酒店まで付き添ってくれました。

 当時、町の唯一の単線は一日に一本、始発が上野駅まで走っていて、私は晩秋の午前5時、まだうす暗い駅の構内で東京行きの始発電車を待ちました。

 学生服にスポーツバックを抱え、バックの中には母が作ってくれたおにぎりと漬物を入れてー。
 先生は自宅のある5つ先の駅から乗り込んできて、私の真向かいに座ると白いビニール袋から暖かい缶コーヒーを取り出し黙って渡してくれました。
 そして、自分は500ミリリットルの缶ビールを取り出し、呆気にとられている私を尻目に「昨日、飲み過ぎたから迎え酒だ」と言いながらグイグイと喉を鳴らしてビールを流し込みましたね。

 やがて電車は4時間ほどかけて上野駅に着き、私は先生に連れられて酒店へ行き、昼食を挟みながら約2時間の面接を受けましたが、先生は担任でもないのに私の生い立ちや学校内での様子を事前に調べていて、父親を早くに亡くしたこと、女手一つで育てられたこと、新聞配達をしながら学校へ通っていることなどを酒店の社長に懇々と話してくれました。
 そのお陰で私は無事、採用されました。 帰りの電車の道すがら、「良い社長さんと奥さんだから一生懸命働いて勉強しなさい、快く東京へ送り出してくれるお母さんに感謝しなさい」と諭すように私に話して下さったことは、今も鮮明に覚えています。

 思えば、私の原点は夜間大学と住み込みで働ける酒店を先生に紹介していただいたことにあります。
 それが人生のスタートになりました。

あれから43年、還暦を過ぎ会社勤めももうすぐ終わろうとしている今、曲りなりに家庭を持ち暮らして来られたのも先生との出会いのお陰です。
 
 告別式では18歳の時と同じように、直立不動で先生の遺影の前に立ちました。
 そして、教科書とチョーク入れの木箱を小脇に抱えながら廊下を悠々と歩く在りし日の姿を思い浮かべながら、深々と頭を下げ懐かしい顔に合掌しました。

先生、本当にありがとうございました。
心から感謝申し上げます。

銀賞 水野 桂  様


お母さん、私はあなたにありがとうと面と向かって言ったことがあったかな?
お弁当、毎日の食事、洗濯をしてくれるのが当たり前でしょと思っていました。
共働きが当たり前じゃない時代で本当に大変だったと今ならわかるよ。
お母さんとの思い出はつらく悲しい思い出の方が多いから、泣けてくる。

けど子供4人を生み、育て、看護師を続け、定年まで働き続けたこと、本当に尊敬します。
時代の最先端だったね(笑)。
自分がそれをやるようになって、「なんてつらいんだ」と本当にわかる。

当たり前だと思っていた私をどうか許して欲しい。
お母さんにはつらい時間だったと反省してます。
面と向かって言うのは、もう少し先になると思うけど、いつか必ず言うよ。
今はその予行練習で手紙を伝えさせてね。

ご飯を作ってくれてありがとう。

お弁当作ってくれてありがとう。

洗濯してくれてありがとう。
(小学生の作文みたいでごめん。)

でも一番は、どんな思いがあったにせよ、

産んでくれてありがとう。

育ててくれてありがとう。

産んでくれたから、今、駿と光莉の母をやれてます。
駿と光莉からはたくさんの「ありがとう」をもらえてるよ。
今私がたくさんの「ありがとう」に囲まれているのは、あなたのおかげです。
私はこれからたくさんの人にありがとうを伝えていくよ。

お母さんにもいつか言えるように、たくさん練習しておくね。


入選 みさわ 有美 様


私は五歳の時に難病と診断され、九歳で手足が動かなくなり、十五歳で寝たきりになりました。
それ以来ずっと母がつきっきりで介護をしています。

一日に何度も行う痰の吸引。オムツの交換。
自分では鼻を噛むこともトイレに行くこともできません。
苦しくて、切なくて、やるせなくて。

このまま死んだら楽になれるかな。そう思うことは何度もあります。
でも自分の首をしめることすら私にはできないのです。

だけど母は言いました。あなたがいてくれて良かったと。

私のせいで美容院にも行けず、お風呂にもゆっくり入れないというのに。
気づけば母の髪の毛は真っ白で、所々ハゲができていました。
それを見て思うのです。

お母さん、頑張り過ぎだよ。
もうやめて。もう、もう。

この病気は一般的に二十歳前後で亡くなるケースが多いようです。
私もそう遠くないうちに逝くことになるでしょう。
でも私に悔いはありません。
お母さんのおかげで私は幸せでした。
身体は自由に動かないけれど幸せ。
だからお母さん。私が逝ったあとはゆっくりお風呂に入ってね。
「おふくろ」の「く」をとるお風呂だから、きっとお母さんを笑顔にしてくれるはずよ。

私は空から見ています。

入選   きらら   様

医療関係者に感謝というけれど、それはもちろんです。
コロナ禍において、お医者様や看護師さん病院のスタッフのみなさんに感謝いたします。

そして、その医療従事者のみなさんも買い物するのがスーパー。
コロナの感染対策に加え、エコバッグの導入で新たな気苦労が芽生えたのではないでしょうか。
私が通うスーパーにはお客様の意見箱があり、それが全て入口の壁に貼り出されます。
あんな商品が欲しい、どこどこにゴミが落ちていた、店員さんの声が小さかった。

なぜでしょう。
意見箱を設置すればこちらからの一方的なお願いやネガティブな意見、クレームばかり。

がしかし、スーパーの全ての人々へ、どうか覚えておいてください。
その意見も何百倍もうまくいっている、スムーズにいっていることがあり、それに静かに私たちが感謝していることを。

コロナで自粛している間もスーパーだけは開けてくれていました。
買い占めに対する対応、コロナ禍で苛立つお客さんへの対応、そしていつも変わらぬ温かい対応や心遣いで私たちのかけがえのない日々を支えてくださいました。

医療関係者に拍手を送るという取り組みが全世界でなされました。
テレビ画面を見ながら私も拍手を送りました。
その後に、スーパーの店員さんにも毎回そっと拍手を送っていました。
その拍手はみなさまに届いているでしょうか。

私たちはみんな知っています。
その働きぶりを、その優しさを、その強さを。

スーパーという場所がわたしたちにとって、あたりまえすぎて日常すぎて、そのありがたさを忘れそうになります。
なぜならスーパーのスタッフのみなさんがあたりまえのようにわたしたちに愛をサービスを提供してくださるからです。

だからあえて、今日はありがとうを伝えます。

すれ違う時の「いらっしゃいませ」を、スタッフルームに戻るときのお辞儀を、完璧な感染対策を、いつも見ていますよ。

その誇り高きお仕事に心からの感謝を申し上げます。
ありがとうございます。
どうかここに癒されている一人がいることを覚えておいてください。




追伸、こんなときに何ですが、500mlの豆乳を入れてください。

入選   帽子   様

”全米が泣いた”
なんて謳い文句の作品は大体面白くないなんて話したような話してないような。
あと、全米が泣いた作品を見たことがないから私は知らないけど。

でも私は全米が泣いた作品を知ってる。
全米が泣いたのかは知らないけれど、私は泣いた。
わあわあ泣いた、そんなもんじゃなかった。
涙がボロボロ止まらずにわあわあ言う暇も無かった。
それにあんまりの感動で心臓を雑巾絞りされているんじゃないかと思うほど胸が締め付けられて普通に痛かった。

それを見つけたあの日、私はお母さんと喧嘩をしていた。

喧嘩でもないか、反抗期のはずなんだけど反抗するのはちょっと怖いから、チクショウと思いながら部屋に篭った。

ストレス発散に何か暴れてやると思い何故か部屋の掃除をした。
暴れてやるつもりだったけど部屋がキレイになった。

暇になったからクローゼットの中の思い出ダンボールを漁ってみた。
小学生の頃、国語の授業で書いた小説が出てきた。
使いたかったんだろうなこの言葉って感じで主人公の感情とは全く合わない表現がされていた。
恥ずかしいというより阿呆過ぎて(何ならこりゃ)と、かなり大爆笑した。
これを読んでお母さんがなんて思ったのか聞く勇気はないから放置。
学年が上がるときに作るクラスの寄せ書きノートのようなものも見つけた。
母からのお手紙も入っていた。
(お母さんの字キレイよね)
お母さんからのお手紙って何でちょっと恥ずかしいんだろう。

それから整頓下手怪獣こと私により、奥の方に押しつぶされていた日記帳を見つけた。
母が私が赤ちゃんの頃に書いていた日記だった。
毎日たくさん書かれていた。
1ページ目には私へのお手紙が書かれていた。
18歳になってようやく知りました。

特別お出かけした時で無くても何てことない毎日のことが書かれていた。
体が弱かった私をたくさん心配していた。
たくさん可愛いと書かれていた。
たくさん生まれてきてくれてありがとうと書かれていた。

ノートを開いた直後に文字の輪郭がぼやけ始めた。
(これじゃ読めんぞ)と思い
とりあえず服でゴシゴシ顔を拭いて、何にもなかったかのようにリビングに戻った。

世界中には大きな愛を描いた作品がごまんとある。
その中には賞を取った作品もあると思う。
だけど私の中では1番は母の書いた日記だった。

お母さんから毎日受ける愛を道にするなら地球を軽く100周はすると思う。
お母さんから毎日受ける愛をはしごにするなら好きな星をあれこれ選び歩きながら
その欠片を家に持ち帰ってくることも簡単にできる。

題名にもした “全米が泣いた” だが、全米は泣かないと思う。
だってこの愛を受けてるのは宇宙の中で私ただひとりだからね。

ただ、世界中にこういう作品はあると思う。
家族じゃなくても、恋人でも、友人でも、色んな形であると思う。
でも日記のように見えることのほうが少ないと思う。
ネットニュースで話題になるわけでもないし、見落としまいがち。
これに関しては「知らないなんて人生損してるよ!!」とかいうつまらないことを私は言う、絶対言う。
色んな形で必ずあるから。

「全米が泣いた作品って大概面白くないよね」
と誰に言われようと私はこの日記帳に「全米が泣いた!!」という謳い文句をつける。

そんな単純で退屈そうな謳い文句に釣られるのが私ひとりでいいから。
私ひとりがいいから。
照れくさくて長々と書いたけど、お母さんの愛情も教育も全てしっかりと娘には真っ直ぐ伝わっています。

表に出すのが不得意な母娘だから、
こっちも上手く伝えられてないけど、

いつもありがとう。

入選 さきこ  様

覚えていますか。

私が専門学校の入試に失敗したのは、とても雪の多い年でした。
雪をくっつけたまま、帰ってくるなり玄関で泣きじゃくる私を、お母さんはいつも通りに叱ってくれたことを、よく覚えています。
「何も終わっていないんだから、しっかりしなさい」

不甲斐ない娘だったと思います。 何をするにも要領が悪く、とろい私は、いつも困らせてばかりでした。
お母さんが誰よりも厳しかったのは、私に肩身の狭い思いをさせない為だったと、今は分かっています。

二人きりの生活の中で、門限も躾も、一人親だからと言われることのないよう、常に気を張って厳しくしてくれたのでしょう。

本当にありがとう。

同級生たちの桜が続々と咲く中、進路を変えて最後まで受験生を続ける私の姿は、お母さんをやきもきさせたと思います。
それでも何も言わず、夜中にコーヒーを淹れてくれたこと、私も資格を取るから、と一緒に勉強してくれたことも、とても嬉しかった。

向上心を持って仕事に向き合うお母さんは、あの頃から変わらず私の憧れの大人でもあります。

雪も溶け始めた頃に届いた、合格通知を一番喜んでくれたのはきっとお母さんです。
「一生懸命やりなさいよ」とだけ言って通わせてくれて、

本当にありがとう。

社会人になって、三度目の冬です。
要領の悪い私ですが、仕事にも慣れました。
覚えは早くなかったけれど、一通りこなせるようになって、任せてもらえることも増えました。
一年目は、電話の度弱音を言ってごめんね。
今はやりがいを、感じています。

来年は資格もいくつか取ろうと思っています。
生活力をつけなさい、と育ててくれてありがとう。
お弁当は時々さぼってしまうけれど、二日に一度回す洗濯も、掃除もきちんと身についています。
自分なりにきちんと、暮らしています。

そして一人になって改めて、お母さんの偉大さを感じています。
情勢柄、年末の帰省は控えますが、お母さんに会いたいです。

二人共言葉数は多い方じゃないけれど、仕事のこと、毎日のこと、会って話したいことがたくさんあります。

次に帰るときは、美味しいものでも一緒に食べようね。
お母さんの好きな日本酒を買って帰ります。
早く暖かくなると良いな。

入選 大須賀 一夫  様


朝起きて生かされていることにありがとう。

三食の食事を頂けてありがとう。

トイレに自力で行けてありがとう。

働ける職場があってありがとう。

上司や部下、同僚が助けてくれてありがとう。

うれしいこと楽しいことに素直にありがとう。

苦しいこと辛いこと、自分を磨いてくれてありがとう。

両親に妻に子どもたちに無条件にありがとう。

助け合う家族がいて改めてありがとう。

夜温かいお風呂に入れてありがとう。

安心して眠れる家があってありがとう。

平凡な毎日だけどそれが送れることにありがとう。


そしてありがとうを素直に言える自分にありがとう!

入選 坊垣 宗之  様


私が今いるのはあなたのおかげです。

あなたが背中を押してくれたからです。

あなたが見ていてくれたからです。

時にブレーキをかけてくれました。

時に支えてくれました。

ずっと感謝しています。

多分語りつくせないくらいのエピソード。

海よりも深く、山よりも高く。

後何回一緒にご飯を食べれますか。


本当にありがとうございました。

余命一年の義母へ

手紙コンテストについて

2020年9月10日 第1回手紙コンテスト『あのとき届けたかった手紙』コンテスト締め切り
2020年9月29日 第1回手紙コンテスト受賞者発表
2020年11月 第2回手紙コンテスト開催予定
2021年2月 第3回手紙コンテスト開催予定
2021年4月 第4回手紙コンテスト開催予定
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